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エルマの読みもの

死から逃れるための感覚?
「おいしさとは何か」の証明

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<center>死から逃れるための感覚?<br>「おいしさとは何か」の証明</center>の写真

豊洲市場「住民」の井上です。


2004年以来、市場の新参者として過ごさせてもらっています。
世界中から人と食品が集まる市場の面白さと、私が日々どのように過ごしているかをお伝えしていきたいと思います。


太古の昔は、おいしさってもっと単純なものだったはずです。


どうして、ここまで変わったのか。神聖な食材があったり、崇拝されるシェフがでてくるようになったり、特別な意味を持ちだしたのはなぜでしょう?


人を含む動物が最も恐れているものは「死」です。


死に直結する「飢餓」から逃れるために、栄養価の高いものを本能的に「おいしい」と感じるようになったというのが、おいしさの根っこにあるものです。何を食べてもまずいとか、食べる事がつらいとか感じていたら、死んでしまいますからね。


その本能的においしいと感じるものの王者が「脂質・糖質・タンパク質」です。少量で大量のエネルギーを生むからです。カロリーが高いものをおいしいと思うのは、これが理由です。栄養を語る上で中心になる5大栄養素は、これに「ビタミン・ミネラル」が加わります。


お肉に塩をかけたり、から揚げにレモンをかけたりする方がおいしいと感じるのは、(意見が分かれるかもしれませんが)、この「ビタミン・ミネラル」を摂取するためだと言われています。



この理屈でいうと、「本能的においしいと感じるものだけをとっていれば、人は長生きするはず」となると思います。ですが、そうはなってないのが面白いところで、そこには「急激に伸びた人間の寿命」が理由にあるとにらんでいます。


人間は他の動物に比べて長生きですが、その寿命が50年を超えたのは、実は案外最近です。衛生環境が悪かったり、飢饉(ききん)や戦争などがあったりして、人間の寿命は思ったよりも伸びず、50年を超えたのはなんと1950年以降だそうです。


戦争が減り、世界が平和になり、衛生環境が良くなって、人生が60年、70年となっていったのはごく最近ですが、その短い過程で、人は野菜も食べないと、栄養バランスが偏ったり体に不調を起こしやすくなったりする事を学習していきます。


もともと野菜が好きな人もいるでしょうが、若い時は肉や魚に比べると誘引力が弱いです。それでも、ある一定の年齢から野菜が好きになったり、日常的に欲するようになったりするのは、「肉ばかり食べていると、病気になりかねない」という学習もあるからではないでしょうか。



ちなみに私の昼食は、ハリウッドセレブのような、ご飯代わりにサラダを大量に食べる「サラダランチ」です。これは仕事柄、食事が高カロリー食に偏るので昼は我慢して調整をしているのです。


学生の頃、野菜が好きな女の子に対して「これは野菜好きを演じているな」とうがってみていた過去を考えると、驚くべき学習力です。


人は何によって「おいしい」と感じているのか?

人は「本能と学習」によっておいしさを感じているのか?
というと、それだけではなさそうです。

おいしさの記憶をたどると、あるいは食事の瞬間に「今どう感じているか」に集中してみると、過去の記憶によって、とてもおいしいはずなのにおいしく感じられない事や、よりおいしく感じているものがある事に気が付きます。

その時に食べているものは、駄菓子やインスタントラーメンから、極上のすしや老舗の天丼までさまざまです。そこにはなんの脈絡もなく、本能でも学習でもなく、説明もしづらいのですが、その時の状況は張り付いたようにはっきり覚えています。その味は、舌の記憶だけではなく、ビジュアルとしても浮かぶのです。

これをうまく表現した(誰が言ったか知りませんが)名言があります。
「本当にうまい食事は、何を食べるかではない、誰と食べるかだ」

「誰と」食べるか。さらに言うと「どこで」食べるかによっても、味は大きく変わります。これって本当に不思議です。では、食べたものをよりおいしく感じられるのはどんな時か?

一言でいうと「うれしい時の味」でしょうか。

ある時は子供が喜んでくれた味で、ある時は父親が作ってくれた味で、ある時は旅行の時に食べた味です。その時の感情とセットで味が記憶に残る。うれしかったり楽しかったりするとおいしく感じるのは、誰しも経験があると思います。

人は「外部環境」によって、おいしさの感じ方が変わるのです。

これって太古の昔から「集団でいると獲物を得やすい」とか、「肉食獣に襲われにくい」とか、そういう「みんなでいると良かった記憶」が今でも引き継がれているのだろうなと思っています。
「本能と学習、誰とどこで食べるか」によって、おいしさの感じ方は変わる事がわかってきました。でも、まだ疑問は残ります。同じものでも、「素材と料理方法を知っているとよりおいしい」と感じるのはなぜなのでしょう。

例えば、本日のメインは「肉を焼いたやつ」です。と言われるよりも、「松阪牛のシャトーブリアンを30日間熟成させたものを、60度の低温で30分かけてローストしました」という情報があった方が格段においしく感じます。

これは学習に近いのですが、ちょっと違います。その発展型、「想像」です。

フレンチなどで、何やら難解な言葉で書かれたよくわからない長文メニューに出会う事がありますが、それを見た時に「さぞかしおいしかろう」と思うのは、人の想像力がなせる業です。

これだけ長いメニューなのだから、ましてや聞いた事がない単語が並ぶのだから、それだけこだわりのある未知の料理が並ぶに違いないという想像、いや「希望」と言い換えても良いでしょう、それがおいしくさせるのです。

「おいしい」の未来系、「おいしいに違いない」です。

人には作り出せない「素材の味」と「おいしさ」の関係性

おいしい食事には、「本能と学習、誰とどこで食べるか、そして希望を感じさせる事」が大事だと分かってきました。ここで、いざ本丸に攻め込みたいと思います。

本来、「素材の味そのもの」と思っていたものは、結局何なのでしょうか?

誰とどこで食べるか、おなかが減っているかどうか、また、年齢や健康状態によっても変わるのが「おいしさ」だとしたら、「素材の味には意味がないのか?」そんな事を思う時もあります。

ここで、かの有名な美食家、北大路魯山人が言った言葉を紹介したいと思います。
「天が作った味を人間が超える事はできない」
この言葉は「味」とは何なのかの答えに近づいている気がします。


生きるための栄養摂取だけが目的であれば、宇宙食のようにコンパクトにバランスがとれた食品にもっと満足するはずです。しかし、人はそうはなりません。

また、どんなに科学が進んでも、食料は自然にあるものを利用する事でしか作れないという事実があります。この自然との関係性の中に、「おいしい」と感じる素材があるのだと思います。

「天が作る味」とは「自然にある味」です。

自然にある味というと、天然や養殖の事かと思いますが、ちょっと違う気がします。その野菜や魚の育つ「環境」が自然かどうか? の方が正しいのではないかと思うのです。

「野菜や果物」は天然と栽培の環境の違いがほとんどありません。
なぜなら、動けないからです。

天然のものでもおいしいものとそうじゃないものがあり、それを品種と生産方法に分けて研究して作られているのが今の野菜たちです。品種と生産方法を極めた野菜はとてもおいしいです。いや、正確にいうと、農家さんが普通に作ったものの採れたてを食べるだけでとてもおいしい。

その対極にあるのが「魚」だと思います。

魚の活動範囲は広く、マグロなどは太平洋を横断したりするので、人の手でそれを作ろうと思ったら、世界史に残るビッグプロジェクトです。移動範囲が広いと食べているものもさまざまになるので、わからない事がまだ多いというのが実情です。だから養殖魚には賛否があるのでしょう。

「料理」で「おいしく」することが人間にもたらすこと

「本能と学習、誰とどこで食べるか、そして希望を感じさせ、さらに自然がもたらした味である事」、おいしさが何なのか見えてきました。ここまできて、最後の疑問は1つ。

「料理」って必要なのでしょうか?

素材をそのまま食べる事は、あまりありません。
通常、素材にはさまざまな方法で手が加えられます。

料理法について、「日本食は引き算、フレンチは足し算」と言われています。
日本料理は素材の味を邪魔する、アクやエグミなど余計なものを引いていき、フランス料理はソースや素材を重ね合わせて味を作っていきます。

実際はその両方の手法が組み合わされていますが、余計なものを抜いたり、味を重ねたりする事で、素材の味そのものが「別の味」へと変わっていきます。

料理のベースとなっているのは「火を通す事」です。
火を通すメリットは2つあり、「殺菌」と体積が減る事により「たくさん食べる事ができるようになる」です。

たくさん食べる必要? と疑問に思うかもしれませんが、食料が安定的に摂取できるようになってきたのはごく最近で、一度にたくさん食べる事は、人類にとって、とても大切な事です。
料理で「おいしくする」根源は、実はここにあるのではないかと思っています。
つまり、「たくさん食べろ」という事です。

おいしくない料理は自然と手が止まります。(我が家の近所にある総菜屋で提供されている、「衣80%エビマヨ」はすぐに手が止まりました)

おいしさの表現として「辛味・甘味・酸味・苦味・塩味」に次ぐ第6の味と呼ばれているのが、かつお節や昆布に代表される「うまみ成分」です。

うまみ成分の最大の特徴は、「組み合わせる事で何倍にもなる」という事です。足し算ではなく「掛け算」になるのです。他の味も、甘酸っぱい、酸っぱ辛いなど、組み合わせる事でおいしく感じます。

ここに料理をする理由が見えてきます。
「味を組み合わせておいしく感じさせる事で、大量に摂取しやすくし、飢餓を防ぐ」です。

人間は「雑食」です。

農耕が始まってからは米や小麦を中心に食べてきた印象がありますが、弥生時代の米作などの技術はまだまだ低く、木の実や貝・魚などの雑食が基本だったようです。それは今でも変わりません。白米至上主義は、米をたくさん食べる事ができた時だけの現象で、穀物は重要ですが、基本はさまざまなものを食べる「バランスの良い食事」です。

結論的なものが出ました。

「本能と学習、誰とどこで食べるか、そして希望を感じさせ、さらに自然がもたらした味である事。その素材のバランスを保つために料理がある」

以上により、おいしさは作られているのだと思います。

そして、最後は余談ですが、料理を食べる時の器や、店の壁に描かれた絵画、そしてお店の接客などを、「すばらしい」と感じる気持ちの高まりは、「おいしいものを食べた時の感動」と似ているなと思います。老舗の料亭や人気のレストランの美術品の様な器や完成された接客は、この「脳の錯覚」を利用したおいしさの一部なのかもしれないなと。

豊洲市場に山のように生鮮品が集まり、それが出荷されていく様子を見ながら、「おいしいという感覚」はこんな風にできているのかもなと、ぼーっと考えています。

筆者紹介


豊洲市場在住 食のプロデューサー
井上 真一

豊洲市場在住 食のプロデューサー 井上 真一

2004年にスタートした豊洲市場ドットコム(旧築地市場ドットコム)。
以来、100年以上続く店舗がひしめくなか、市場の新参者として過ごさせてもらっています。世界中から人と食品が集まる市場の面白さと、「肉食系」の男女が集まる市場で、「雑食系」の私がどう過ごしているかをお伝えしたいと思います。

どこにでもあるものより、なかなかないもの。
太陽の香りがしたり、人の手の温度を感じる。
大事に生まれたものは、大事にしたくなるものです。
そうだ。こだわりは、ごちそうなんだと思う。
もっと知ってほしいもの、あなたに届けたいもの、見つけました。
好きって、エールなのかもしれません。